大判例

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大阪高等裁判所 昭和58年(う)13号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人松本勉作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

論旨は、被告人は、本件各犯行当時神経性食思不振症(思春期やせ症)に罹患していて行動制御能力を全く欠き、心神喪失の状態にあったのに、これを認めず、心神耗弱の状態にあったにすぎないと認定した原判決は事実を誤認している、というのである。

そこで、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して考察するに、被告人の原判示第一の犯行は、昭和五七年三月一九日に寝屋川市内のスーパーストアで各種食料品四六点(時価合計一万八、〇五六円相当)を万引き窃取したもので、原判示第二の犯行は、同年六月五日に大阪市福島区内のスーパーストアで各種食料品三三点(時価合計一万一、〇三六円相当)を万引き窃取したものであり、なお、被告人はこれらの犯行に先立つ同年一月一九日に窃盗罪で懲役一〇月、二年間刑執行猶予に処せられた前科一犯を有しているが、この前科にかかる窃盗も、昭和五六年一〇月一〇日に、本件と同様、門真市内のスーパーストアで各種食料品三六点(時価合計一万一、八三五円相当)を万引き窃取したものであり、原判示第一は右執行猶予の判決を言渡されてから二か月後の犯行、また、原判示第二は右第一の事実により昭和五七年五月一〇日に起訴されていながら、それから一か月と経たないうちに犯したものであって、本件は、女性である被告人が、普通なら誰しも新たに罪を犯すことを思いとどまるであろう状況のもとで、同種犯行を短期間に反覆している点及び盗む物品が食料品に限られ、しかもかなり多量である点で異常性が感じられるものであるが、他方、原審で取調べた各証拠によれば、被告人が、本件各犯行当時、神経性食思不振症、別名思春期やせ症と呼ばれる疾病〔思春期前後の未婚女性に多くみられる心身症で、食習慣の異常(摂食量過少・過食と嘔吐・盗み食い・家族との会食拒否)極端な体重減少、性に対する嫌悪(月経閉止)、特に、やせているのに異常に活動的であることなどを主症状とし、無意識の成熟の拒否や親子関係の障害などが原因と考えられている。〕に罹患していたことが認められ、本件各犯行と右疾病との関連が注目されるところ、原判決は、原審において弁護人がした所論と同趣旨の主張に対し、「被告人は本件犯行当時、青春期やせ症(又は、神経性食思不振症)と名付けられる神経症の一種の状態にあり、本件は右神経症に起因して惹起される異常な食欲を満たそうとして敢行されたものであることが明白である。」としながらも、「しかし、被告人の、本件犯行の態様、犯行直後の取調べの状況、その日常生活の状態、当公判廷における供述の態度、内容等を総合して判断すれば、被告人が、本件犯行当時前記神経症のために理非善悪を弁別する能力、又はその弁別に従って行動する能力を全く欠いていたものとは認め難く、右能力の著しく減退した状態にあったものと認めるのが相当である。弁護人の主張は、被告人が本件犯行当時、心身耗弱の状態にあったものと認める程度において採用する。」と説示して、弁護人の心神喪失の主張を排斥している。

しかしながら、被告人の生育歴、病歴、窃盗歴、本件犯行の態様等をしさいに検討すると、原判決の右判断にはにわかに同調し難いものがあるといわなければならない。すなわち、まず、原審及び当審で取調べた各証拠を総合すると、

(一)  被告人は、父が四六歳、母が四三歳の時に末子として生まれたが、その家族構成は複雑で、長姉(昭和七年生)と長兄(昭和九年生)は母の最初の夫を父とし、次兄(昭和一七年生)は、母が最初の夫の死後内縁関係を持った男性を父とし、被告人の父は母の再婚の夫であった。家庭は経済的に豊かでなく、父は子供に無関心であり、母は、子供を躾ける能力に乏しかったが、高齢出産による子供であったこともあって被告人を甘やかせて育て、このため被告人には母親に対する強い依存心が形成され、これが成人後も継続したが、その反面、被告人は、母から妊娠してしまったので仕方なく生んだ子であるなどといわれ、自分は祝福されないで生まれてきたという意識を抱き続けていたし、父母がよく喧嘩をすることにも嫌悪感を抱いていた。被告人は、高校二年になるころまでは、学業成績も良く、さして問題なく過ごしたが、小学校へ入学するころ、近所の人らしい男性に性的悪戯をされかけたことがあり、また、中学性になったころ次兄にも性的悪戯をされ、のちに昭和四五年ころ睡眠薬自殺を図った際、それによって受けた心の悩みをノートに記している。

(二)  被告人は、高校二年生のころから、自分が期待し満足できるような自分ではなく、もっと美しくありたいと思い始め、同学年の夏休みに、美しくなるため痩せようと考え、一か月減食するなどして四七キログラムあった体重を一〇キログラム減らしたが、二学期になって同級生から痩せたことについて色々と聞かれ、特別な眼で見られたので、それが嫌で再び食べるようになり、体重は元に戻った。その後まもなく学校へ行くのが嫌で休むようになり、不登校が続くにつれて、勉強の遅れが気になり、無口になり、家に閉じこもるようになり、三年生になっても殆ど登校せず、卒業式が過ぎたあと少しだけ登校して卒業証書は貰ったが、このころはささいなことで腹を立て、母に当り散らし、家を飛び出したりしていた。その年(昭和四三年)四月一日付でA公社へ補欠入社したものの、女性ばかりの雰囲気が嫌で、入社式にも出ず、一五日ほど出勤しただけで、休むようになり、同月二〇日退職し、その直後生きて行く気持を失なって睡眠薬自殺を図ったりしたため、長姉らのはからいで同年五月から九月まで澤神経科病院に入院したが、その際医師からは、「性格的な問題に起因する社会生活の不適応であり、精神分裂病ではない」と診断された。その後数年間は、時に勤め口を得て働くことはあっても、疲れやすく仕事が溜まりがちになり、それが嫌で長続きせず、殆ど家にいて家事を手伝っていた。昭和四五年ころ(二一歳前後)仕事先で知り合った男性と肉体関係を持ったことがあったが、その後は男性に興味を失い、やがて性そのものに対して拒否的になっていった。この昭和四五年ころ、再び睡眠薬自殺を企て救急入院をしたが、かつて次兄から性的悪戯をされたことの悩みを書き残したのはこのときである。更に、この昭和四五年ころから、被告人は、体重減少が著しくなり、それまで不順ながら少量あった月経が全くなくなり、また、無茶苦茶に過食しては、すぐ吐き出す、食事以外にも菓子などを一日中のべつまくなしに人の三乃至四倍量を食べ、食後に吐きに行くという異常な食行動を続けるようになり、遂に昭和四八年八月から同年一一月まで、大阪大学医学部付属病院に入院し、神経性食思不振症と診断されて治療を受けるに至った。しかし、被告人自身に病識がなく、十分な治療効果をみないまま被告人の希望で退院し、その後まもなく被告人はB新聞社に入社して働き始め、この勤務は本件犯行当時まで続いていたが、一方前記のような異常な摂食行動も、その程度に上下はあっても本件犯行当時まで継続し、この間、三二キログラムから三七ないし三八キログラムという極度に軽い体重を持続してきていた。

なお、被告人は、性格面では未熟であるが、知能は正常であり、また、他の精神疾患をうかがわせる症状も有していない。

(三)  被告人は、高校生のころ、スーパーストアで約二、〇〇〇円相当の菓子類を万引きし、家で家人に隠れて食べたのを最初として、これまで、事件にはされなかったけれども、何十回となく食料品の万引きを繰り返してきたもので、昭和四六年ころにも、長兄が二、三回警察へ被告人を貰い下げに行ったことがあったが、盗みが頻繁になったのは、昭和五五年ころ過食・嘔吐がまたも激しくなってからで、そのころは、見つからないまま時には毎日のように、あるいは週に一度位の割合で食料品の万引きを続け、その間同年夏ころ、食料品以外の物として一度だけ近鉄アベノ百貨店のアクセサリー売場でブローチを一個盗んだことがあり、昭和五六年二、三月ころには、イズミヤショッピングセンターでの二回目の万引きの際、保安係に見つかったが、床に土下座して泣いて謝り、生まれて初めて万引きしたと嘘をついて、警察には通報されずに許して貰った。その後しばらくは盗みを控えていたが、同年六月ころからまたこれを始め、同年一〇月初めに再び見つけられ、このときは生活費に困った挙句の出来心であったと嘘をついて許してもらったが、その直後の同月一〇日前記執行猶予の前科にかかる罪を犯し、更にその後、本件各犯行に至るまでの間、見つからなかった犯行として、昭和五七年二月中旬にも京阪デパートで食料品を万引きしている(なお、検察官は、当審での弁論において、被告人が捜査段階で供述するところに基づき、「被告人は、学生のころ、小遣いが少なくて親に無理を言えなかったところから、小さなスーパーで菓子類を盗んだことが一度あったほか、成人に達してからはずっと窃盗歴はなく、昭和五五年夏ころ近鉄アベノ百貨店でアクセサリーを万引きしたのが最初であり、その後の盗みは右の万引きが成功したのに味をしめて行なったものである。」旨主張するが、被告人の捜査段階における供述中のこの点に関する部分は、被告人の前記のような特異な病歴を殆ど念頭に置いていない捜査官の前でなされたものであることがうかがわれるほか、被告人も、神経性食思不振症の患者に顕著な自己弁護傾向から、過去の窃盗歴を必ずしも正直には述べていないと考えられるから、信用性に乏しく、被告人やその家族が当審鑑定人北村陽英に対して述べている内容その他に基づき、前記のとおり認定するのが相当であり、検察官の右主張は採用することができない。)。なお、本件犯行当時、被告人は母と二人で暮していたが、その家庭の収入は、被告人の給料、長兄からの仕送り、母の障害福祉年金などで月額約一七万五、〇〇〇円以上あり、他に一〇〇万円位の貯金もあって、生活費のやりくりに困る状況ではなかった、

などの諸事実が認められ、被告人の捜査段階における各供述調書中には、窃盗歴などについて右認定に反する部分が存するが、これの措信し難いことはすでに述べたとおりであり、他に右認定を左右するに足る証拠は存しない。

次に、当審鑑定人北村陽英は、その作成にかかる鑑定書及び当審公判廷における供述において、前記認定のような被告人の生育環境、生活歴、窃盗歴、本件犯行の態様やこれに関する被告人の供述状況、更には被告人に対して実施した諸検査の結果などを精神医学的見地から詳細に検討したうえ、「被告人は十六歳のころから神経性食思不振症を発症していたと診断される。右の疾病は一般に慢性の病気であり、軽重さまざまな症例が報告されているが、過食及び嘔吐をきたす症例は重症であり、被告人の場合、昭和四五年ころから現在までの間に認められるその食行動異常歴から判断して、典型的な神経性食思不振症者であり、その最も重症例であるといえる。神経性食思不振症者の窃盗例はまま見受けられるが、その特徴は盗品が食料品もしくは食行動異常に関係した物に限られていることにあり、拒食して痩せる症状のみを示す患者よりも、過食して嘔吐する患者の方が高頻度で食料品窃盗を犯す。神経性食思不振症者の場合、食料品を盗むことは食行動異常と同様全くの衝動的行為である。被告人は本件当時、過食と嘔吐の日々を送る中で食料品を頻回に窃取しているが、これらは右に述べた神経性食思不振症の一症状としての衝動的行為であったと考えられるべきであり、一般にみられる常習性窃盗とは明らかに区別される病態である。結局、被告人は、本件各犯行当時、一般常識的には窃盗が犯罪行為であることは認識していながら、神経性食思不振症に罹患しているため、食品窃取を含め食行動に関しては、自己の行動を制御する能力をほぼ完全に失っていたと考えられる。」旨の鑑定意見を述べ、また、原審証人藤本淳三も、かねてから神経性食思不振症について研究している医師として昭和五七年六月下旬ころから被告人を診療した結果に基き、右とほぼ同趣旨の意見を述べている。

そこで考えるに、右鑑定人北村陽英の鑑定意見は、精神医学上の知見と関係事実の入念な検討に基づくものであり、かつ、被告人の本件各犯行を含む一連の窃盗行為にみられる異常性を合理的に解明するものであって、十分首肯するに足るというべきであり、これと前記認定の諸事実並びに関係証拠によって明らかな本件各犯行の態様等によってみると、被告人は、本件各犯行当時、神経性食思不振症の重症者であったため、事理の是非善悪を弁識する能力は一応これを有していたものの、食行動に関する限り、その弁識に従って行為する能力を完全に失っていたもの、すなわち、右にいう食行動の一環たる食物入手行為に該当する本件各犯行は、いずれも心神喪失の状態において行なわれたものであると認定するのが相当である。

検察官は、当審での弁論において、被告人は、本件各犯行に際し、あらかじめ盗品を入れる紙袋を用意してスーパーストアに赴くなど計画的に行動しており、また、犯行が発覚すると素直に謝っていること、被告人の知能も正常であることなどに徴すると、被告人が是非善悪の弁識能力はもとより、その弁識に従って行動する能力も有していたことは明らかである旨主張するが、前記鑑定人北村陽英作成の鑑定書及び同人の当審公判廷における供述によれば、検察官指摘の各事実は、いずれも被告人の本件各犯行を神経性食思不振症者の衝動的行為と解するにつき格別妨げとなるものではないことが認められるから、これらをもって前記認定を動かすべき事情ということはできず、右主張は当らない。その他検察官が弁論するところにかんがみ検討しても、右の認定を動かすに足る事情を見出すことはできない。

以上のとおりであって、本件各犯行につき、被告人が心神喪失の状態にあったものではないとして窃盗罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわなければならない。論旨は理由がある。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い更に次のとおり判決することとする。

本件公訴事実は、

「被告人は、

第一  昭和五七年三月一九日、寝屋川市早子町二三番二三号スーパーラッキー寝屋川店において、安原宜夫管理にかかる牛肉五パック等各種食料品類計四六点(時価計約一万八、〇五六円相当)を窃取し、

第二  同年六月五日、大阪市福島区大開一丁目八番八号ジャスコ株式会社野田店において、小笠原弘明管理にかかるえび二パック等各種食料品計三三点(時価計約一万一、〇三六円相当)を窃取し

たものである。」

というのであるが、前記説明のとおり、本件当時被告人は心神喪失の状態にあったもので、本件各被告事件はいずれも罪とならないので、刑事訴訟法四〇四条、三三六条により無罪の言渡をする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 環直彌 裁判官 髙橋通延 青野平)

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